2010年9月17日金曜日

報告会

 韓国のオルタナティブ教育を進めている皆さんとシューレ大学の学生たちは交流がよくあることもあり、韓国のオルタナティブ教育への関心は高いです。さっそく、今日、報告会を開きました。
 大会の様子、大会で話されたことなどを中心に大会の中や外でわかった韓国のオルタナティブ教育の動向などを報告しました。韓国のオルタナティブ教育が様々な実践をしていて、考え方も様々であるけれど、オルタナティブ教育をすすめるという点では力を合わせて今までの困難な局面を切り開いてきていることも改めて感じられました。また、日本の不登校のような経験をしてオルタナティブスクールに来る子どもが韓国では減ってきていることなどについて議論をしました。韓国のオルタナティブ教育の皆さんとは今後ともいいお付き合いが続いていきそうです。

大会後の宴

 韓国の皆さんと何か企画をすると、よく真っ直ぐわいわいと打ち上げに行くことが多いように思います。今回の大会を企画した韓国オルタナティブ教育全国ネットワークの企画をしたメンバー、企画に参加したオルタナティブスクールの子どもたち、ボランティアの学生たちなど多くの人が集まって、それぞれの分担が無事に終わって気兼ねなくしゃべって食べて笑いました。
 企画した皆さんにとって今回の大会はとてもいい回だった様で、次をやりましょう、というように思う大会だったとのことです。みなさんのその思いが伝わってくるいい会でした。

2010年9月13日月曜日

ミンドゥルレの子どもたち企画の懇談会


 昼食ぎりぎりまで続いた熱い議論の後、昼食を食べてから、空間ミンドゥルレというソウル市内のオルタナティブスクールの子どもたちの企画に参加しました。
 「5~6人の参加者とゆったり、じっくり話す企画です」と聞いていたのですが、ミンドゥルレの企画をした子どもだけでも10人ほどいて、40~50人の人がいる比較的大きな企画になりました。
 このセッションは、まずミンドゥルレの子どもたちが準備してきた質問を一通りして、その後参加者全員と質疑応答するというものでした。ミンドゥルレの子どもたちからは、「自分は今、不安一杯で生きているけれど、不安をどのように減らしていったのか」「自分の好きなことをしろといわれるが、自分の好きなことがわからない僕はどうすればいいのか」など率直な質問がきました。また、参加者にはいろんなオルタナティブスクールのスタッフもいて、シューレ大学の修了のやりかたや意義についてなどの質問も出ました。

シューレ大学についての発表

 二日目の午前中の全大会は「オルタナティブな進路探索とオルタナティブ大学」というテーマでした。このメインプレゼンテーションとしてシューレ大学について話してきました。まず、日本の若者の状況を踏まえてシューレ大学について朝倉が話し、そのあと個人の体験をシューレ大学の学生の長井君、続いてこの春にシューレ大学を修了し起業して経営者となった石本さんが話しました。私たちの発表の後に全国の親の会の代表の話があり、その方たちを交え質疑応答をしました。
 フリースクールの学びとオルタナティブ大学の学びの違いは何かとか、一番の苦労は何かとか、韓国でオルタナティブ大学を始めるならば若者からまず声が上がるべきではないかとか様々な質問と意見が出され、大いに盛り上りました。日本ではオルタナティブ大学についてこんなに多くの人がこんなに活発に質疑応答がなされることは難しいと思います。韓国のオルタナティブ教育の流れの勢いを改めて感じます。

2010年9月12日日曜日

オルタナティブ教育広場

 今回の大会は韓国のオルタナティブスクールの全国ネットワークが開いているもので、「オルタナティブ教育広場」という名前です。IDECの韓国版のものといえば近いでしょうか。このような大会は初めてだそうです。全大会の挨拶やシンポジウムもありますが、様々なオルタナティブスクールのワークショップがあったり、話し合いの分科会があったり、子どもも大人も大勢います。
 会場は、聖公会大学というソウルの西の方にある大学です。500人の来場を予想していたそうですが、1200人を超える来場者があり、活気にあふれていました。この写真はオープニングの子どもたちのサムルノリ(韓国の伝統音楽の一つ)の演奏です。

ソウル都心の徳寿宮

 韓国は変化のスピードが速い社会です。ITを取り込むスピードなどは、日本よりはるかに速かったようですし、教育でも変化は早くスケールが大きいように思います。また、同時に伝統も大切にされているように感じます。この写真は、そんな韓国の一風景ということでしょうか(少々強引か)。
 この写真は徳寿宮の建物です。ソウル市議会の近くという都心にあります。この徳寿宮は2010年という日本が韓国を併合して100年という節目の時期に深い関係がある建物です。この宮は高宗が日本に併合されることを何とか防ごうとした場所であり、併合後も住み続け死去した場所でもあります。
 韓国の教育制度には日本支配時代の跡が随所に残っています。僕が始めて韓国を訪れた2000年にはまだ、小学校を国民学校と呼んでいました。これも日本支配時代の名残なのだと聞きました。韓国のオルタナティブ教育のことを考えていても日本支配時代のことはどこかしらに出てきます。それは、今も韓国の人々の暮らしの中に日本支配時代のことがあるということでもあるということです。そのことをしばしば考えざるをえません。

2010年9月11日土曜日

深夜の打合せ:韓国代案教育大会

韓国のオルタナティブ教育の全国ネットワークでは様々な行事や活動を行なっていますが、今回の大会はIDEC(国際デモクラティック教育大会、日本では世界フリースクール大会と呼ばれている)の韓国版のような大会で、初めて開かれるものです。全国ネットワークの代表は写真の一番右の緑の服の金敬玉さんです。今回の大会の担当者は写真左のハテウさんです。お二人が迎えてくださり、深夜に打合せをしました。シューレ大学の話をということで、今回招いていただきましたが、私、朝倉だけでなく、学生の長井君、OGで起業したばかりの石本さんも話を聞きたいと呼んでくださいました。

韓国の代案教育の大会

今日から韓国のオルタナティブ教育の全国ネットワークが主催する大会が2日間あり、シューレ大学について話をしてほしいと呼んでいただきました。
夜遅くに韓国に着きました。
写真は空港で撮ったものです。

2010年4月16日金曜日

ケファサバデモクラティックスクール

 次の日に訪れたのがケファサバデモクラティクスクールです。子どもの人権を尊重する活動をされてこられたヤエルさんが設立したデモクラティックスクールで、テルアビブから来るまで30~40分ほどのケファサバ市の緑の豊かな環境にあります。
 このデモクラティックスクールは設立から市の協力と支援を受けており、建物もこのデモクラティックスクールのために設計された鉄筋コンクリートの立派なものが市のお金でできています。ここで子どもたちに人気がある表現の一つにダンスがありますが、ダンスの建物があり、ダンス用のバーと一つの壁面がミラーになっていてダンスがやりやすいような環境も整っています。その他にも照明設備を備えた小さな劇場になる部屋、充実した美術のアトリエなどもあります。私たちが訪問した時は、子どもたちの作品を飾った美術展をしていました。
 日本のフリースクールでは難しいのですがここは建物の外の空間もゆったりしていて、バスケットなどができるスポーツのコート、屋外用の卓球台、野菜の畑、雨や日差しを避けておしゃべりができる東屋などがあります。
 この日は、まず音楽で私たちを歓迎してくれました。野外でステージを演奏する音響機材などの仕込みや操作では今のメンバーの子どもとサポートでOBの姿も見られました。キャンパスの中はやはりこどもがガイドをして案内をしてくれたり、簡単な飲食ができるカフェコーナーを作ってくれたりしてもてなしてくれました。

2010年4月14日水曜日

ヘデラデモクラティックスクール・続き

 ヘデラデモクラティックスクールは広場のようなオープンスペースを取り囲むように小さい平屋の建物がいくつも建っています。徐々に建物を増やしていったのだそうです。ヘデラには幼稚園年齢の子どもから18歳の子どもまでおり、幼稚園年齢の子どもたちの建物のように一定の幅の年齢の子どもたちのハウスの建物もあれば、音楽スタジオの建物や美術の工房の建物、図書室など用途に応じた建物もあります。年齢ごとのハウスには簡単な台所が付いており、簡単な煮炊きができるようになっています。
 この写真は美術の工房で撮ったものです。部屋では同時並行で絵の制作をしているしている子どもたちがいて、この写真の女の子たちから少し離れたところでは、もう少し年齢の大きな子がモノクロで細密な絵を描いていました。他の一角には映像の編集コーナーもあります。ヘデラでは様々な表現活動が盛んで、IDECではデイビッド・ホックニーのようなフォトコラージュの作品を展示する子もいたり、この日はライブラリーに大きなスクリーンを張って、映画館にして子どもたちの作った映像を上映していました。

2010年4月13日火曜日

ヘデラデモクラティックスクール

 最初の学校訪問は、ヘデラデモクラティックスクールです。ヘデラデモクラティックスクールはイスラエルで初めてデモクラティックスクールという名前を使い、現在のデモクラティックスクールの運動をリードしてきたところです。IDEの代表をしているヤコブさんが20代で1987年に設立したデモクラティックスクールです。
 この日は、大型バス3台に分乗してやって来たIDEC参加者たちを門の外から出迎えてくれました。子どもたちが実行委員会を作って私たちIDEC参加者をどう迎えるのかを準備してくれていたようです。最初は女の子2人のダンスを交えた熱烈な歓迎メッセージで始まり、音楽の生演奏、子どもたちが作った映像の上映会、タイルに思い思いの模様を描いていくクラフトのワークショップ、飲み物とお菓子のある休憩コーナー、バスケット、バレーボール、サッカーのスポーツコーナーなど様々な企画が同時に展開しており、訪問者はいつどこに行ってもいいというしくみでした。シューレ大学から参加した私たちには、前日にIDEC会場で知り合ってお食事の時に日本語とヘブライ語を教えあったアメリットさんが案内をしてくれました。

IDEC国際デモクラティック教育大会

 今回イスラエルを訪問したのは今回で18回目を数えるIDEC(国際デモクラティック教育大会)に参加するためです。IDECは、子どもが中心の教育をおこなっているフリースクールとかデモクラティックスクールとか呼ばれる場の子ども、親やスタッフや関心のある研究者や学生などが集まる国際大会です。1年に1回開かれる大会で09年は韓国(新型インフルエンザにより中止)、08年はカナダ、07年はブラジルなどのように世界各地でその地のフリースクールなどが主催してきました。
 今年は、テルアビブにあるIDE(デモクラティック教育研究所)の主催です。実は、IDECの第1回大会はイスラエルで、そのきっかけを作ったのが、IDEの代表をしているヤコブ・ヘクトさんでした。
 今回の大会は、4月6日から13日までで、テルアビブで開かれました。海外から約220人、国内からの参加者は1000人を越えるという規模の大きい大会でした。大会は最初の3日間が主催者企画のパネルディスカッションやワークショップとデモクラティックスクール訪問を中心とし、次の2日間が参加者が持ち込むワークショップやイスラエルの子どもたちのダンスの発表や写真の展示などがあり、最後の3日間でイスラエル各地のデモクラティックスクールを訪問するという日程でした。

壁を越えて(続)

 この写真は壁をイスラエル側から撮影したものです。丸い監視塔の上にあるのはイスラエルの国旗だったと思います。パレスティナ側ではここそこで壁は落書きだらけだったのに対して、イスラエル側ではあまり落書きがなかったように思います。それぞれの社会での壁の存在を反映しているように感じました。
 壁一枚で隔てられているパレスティナとイスラエルですから、きっと気候はあまり違わないのだと思いますが、景色はずいぶんと違っています。イスラエルの都市には緑が多く、春を彩る様々な色の花があふれるように咲いて美しいです。一方、パレスティナのベツレヘムでは緑はあるのですが、乾燥した大地に懸命に立っているというようにも見える草木の印象が強いものでした。パレスティナの人たちの話では水の分配が違っているからそうなるのだと語気を強めていました。

壁を越えて

 パレスティナとイスラエルは壁に隔てられています。イスラエルが治安の維持のためという名目で建てたものです。壁は基本的にぶ厚い背の高いコンクリートパネルで作られていて、ところどころに監視塔があり、超えることができないようになっています。
 この壁があることで、イスラエルとパレスティナが物理的に分断されているだけでなく、パレスティナの村同士も人の行き来ができにくくなっていると聞きました。また、壁の向こうが見えないことでより相手がわからない疑心暗鬼も増えていっているのだとも聞きました。物理的な壁が人の心の中にも入ってきてしまうのです。
 この壁の写真はパレスティナ側から撮ったもので、このような落書きはパレスティナ人や、パレスティナにやってくる外国人が描くのだそうです。
 平和教育を進める希望と花の学校のスタッフ、ガーダさんはデモクラティックエデュケーションはその社会の現状に根付いたかたちで、その社会で生きている子どもの生活に合うところからはじめなければいけない、とインタビューで語ってくれました。このインタビューを終えて、私達はベツレヘムとイスラエルの国境の検問所に行き、飛行場の手荷物検査や身体検査のように厳重なチェックを経て、その他のパレスティナの人と一緒に歩いて検問所を通ってイスラエルに入りました。

2010年4月6日火曜日

パレスティナ自治区ヨルダン川西岸、ベツレヘム

 今回滞在している場所は「パレスティナ自治区ヨルダン川西岸、ベツレヘム」およびその郊外の村ということになります。ヨルダン川西岸の自治区では3通りの状況があり、パレスティナの完全自治、イスラエルの治安地域、その中間形態だそうです。希望と花の学校がある場所はイスラエルが治安を掌っています。そのため、水の分配などをめぐって様々なトラブルがあります。
 この写真は、ベツレヘムの難民キャンプの一角で撮影したものです。インティファーダなどで死んだ人の絵や写真を壁に描くことがよくあるそうです。この写真もその一つではないかと思います。この難民キャンプには2万人以上が住んでおり、国連が環境の維持を担当しています。現在は治安は落ち着いてきており、生活も向上してきているのだそうですが、衛生状況などは不十分なのだそうです。ベツレヘムの失業率は40パーセントを越えていますが、難民キャンプの失業率はさらに高いそうです。そのことが社会の不安定や子どもの生活に様々に影響しているのです。
 希望と花の学校では、子どもの教育のみならず、地域の基盤を確かにするために、特に助成の経済力を付けることやインドで注目されているマイクロファイナンスなどの支援活動もしています。

平和教育

 この写真は、希望と花の学校の授業一つで、日々の生活の中で溜め込んだ感情を外に出すワークショップのひとコマです。この学校の子どもたちは貧しい地域から来ていたり、難民キャンプからも来ています。貧困や暴力が日常にあり、出合った子どもの一人は2年前に父親をイスラエル兵に殺され、引き続き母親も殺されてしまい孤児となり、現在孤児院から通ってきているのだそうです。
 ここでは、学級単位の授業などのほか、個別にスタッフが対応するプログラムが様々あり、一人一人の子どもにできるだけ必要なサポートをするようにしているのだそうです。こともが安心を感じられることがまず大切だとスタッフの一人が話してくれました。

希望と花の学校

 きのう4月4日からパレスティナ自治区、ヨルダン川西岸、ベツレヘム郊外にある希望と花の学校に来ています。希望と花の学校は1984年に難民キャンプで育ち、社会を変えるには教育が重要だと考えたフセイン・イッサ氏によって設立された学校です。暴力と貧困、差別により人々の苦しみが耐えないこの地域で、人々が人間らしい暮らしをしていくためには、平和と人権を尊重していく人が増えていくことが重要なのだと考えたのだそうです。
 だから、希望と花の学校では平和と人権を尊重する教育を行なっています。右の写真は希望と花の学校のロゴのようなもので校舎にあったものを撮影しました。

2010年4月4日日曜日

パレスティナより

きのうの夜10:20にイスラエルのテルアビブの空港につき、それから荷物を取り、換金してタクシーに乗り込みました。夜遅いとバスはなく、タクシーしかないと今回お世話になる希望と花の学校のガーダさんから聞いていたのです。空港からのタクシーで国境を越えてパレスティなの都市、ベツレヘムまでいけるということでした。ところが、イスラエルのタクシーの運転手は「パレスティナはイスラエルの警察権が及ばないからそんな怖いところにいくようなイスラエルの運転手はいない」というのです。乗り合いタクシーの運転手に何とか頼んでベツレヘムの国境まで連れて行ってもらいましたが、その運転手さんいわく、「こんな夜遅くに国境にはほとんど人がいないから君たちはここで何んにもないところで夜明かしをしなければいけないだろう、どうしてエルサレムで一泊してから行かないのか」とのこと。でも、結局、国境でパレスティナの白タクに乗り換えて、無事にガーダさんが手配してくれていた宿にたどり着きました。ちょっとした深夜の冒険でした。
 ゆっくり眠ることなく今朝は6時半前に早起きして朝食を済ませ、ベツレヘムの町へ撮影に行きました。この写真は道沿いで野菜を売っているお店の写真です。日曜日の朝なのに仕事熱心ですね。