2011年7月25日月曜日

IDEC2011イギリス大会⑦サンズスクールの演劇

 サンズスクールでは演劇が盛んです。IDEC中も3種類の公演をそれぞれ複数回していました。この写真は、『失踪者たち』という演劇の1シーンです。80年代のアルゼンチンの話で、軍政下に政府に不当逮捕され行方不明になってしまった人たちの話です。演劇では、行方知らずになってしまった人たちの母親の視点から語られていきます。14歳くらいの子ども達が演じていました。脚本も子どもが選んできたとか言うことでした。
 数人いる役者が一斉に同じせりふを言う場面が何度も出てきます。タイミングがそろわないと、客はせりふが聞き取れません。役者たちはちゃんとタイミングをそろえ、きちんとせりふは聞こえました。また、この演劇では一人の役者が2役以上演じることが多く、複雑ですが、よく稽古をしていたようで、スムーズに流れができていました。11歳・12歳の子どもたちがホメロスのオデッセイを演じていました。こちらは、演じるのがいかにも楽しそうでした。大きい年齢の子どもたちがもう1種類演劇を公演していましたが、それは見ることができませんでしたが、とても充実していたようです。

2011年7月24日日曜日

IDEC2011イギリス大会⑥サンズスクール

 今回の大会を主催したサンズスクールの庭から母屋を取った写真です。サンズスクールには18世紀に立てられたジョージアンと言われる建築様式の母屋と、美術の工房、木工の工房、科学の実験室の4つの建物があります。母屋はこの写真の見た目より大きく、3階建てで地下室、屋根裏部屋まであります。イングリッシュルームとかマーティンズルームとか、その部屋でよく使われる授業の名前やそこでよく授業を開らくスタッフの名前で呼ばれている部屋がいくつかあったり、演劇の簡単なステージや照明のある演劇の部屋、スタッフルームのほか大きめの台所と食堂などもあります。食堂のドアは写真の庭へとつながっていて、昼食は食堂の中でも、庭でも食べやすくなっています。
 母屋に続く芝生の庭には何本かの大きい木がありますが、その脇にはクライミングのための壁、スケートボード用のコーナーもあります。樹の内の1本には樹上ハウスのようなものもあります。芝生を進むとバスケットコートにもテニスコートにもなるスポーツコートがあります。その他にも花壇や野菜や果樹が植わっているところもあり、とても豊かな環境です。

2011年7月16日土曜日

IDEC2011イギリス大会⑤IDEC会場

 今年のIDECの主催はサンズスクールです。サンズスクールは美術が盛んで、子どもが作った象の像とサイの像がサンズから運ばれてきていました。象の上の部分には小さい子が乗ることができます。
 会場ではサンズスクールの子どもたちが所狭しと走り回っていて、大人も巻き込んで旗を使った陣取りで盛り上っていました。子どもたちはそれだけでなく、受付や食事当番(盛り付け・食器洗い)などもしっかり担ってくれていました。
 サンズスクールへは会場から歩いて3分ほどの所にあり、のどかな牧草地帯を辿っていくのがなかなか心地よいところです。会場は、ダートムーア国立公園の中に位置する自然体験施設で、キャンプもできればアスレチックもでき、講演などに使える部屋もいくつかあります。しかし、IDECではそれだけではワークショップをする場所が足りないので大きなテントをいくつか設営していました。実は、象やサイはそのテントの看板代わりにもなっていました。「○○のワークショップは象のテントで」というように使われていました。

2011年7月10日日曜日

IDEC2011イギリス大会④パークスクール

 パークスクールは3歳から11歳の子どもたちが通うフリースクールです。広い敷地にはハーブガーデン、野菜畑があるだけでなく、林や広い芝生、その中には中央アジアの遊牧民のゲルもあります。今、子どもたちの関心が強いものの一つがハーブガーデンなど食べられる植物を育てることだそうです。広い緑豊かなキャンパスで思い切り遊びながらのびのび育つことができるのはうらやましい限りです。

IDEC2011イギリス大会④イギリスのフリースクールの誕生日

 きのうの夜はイギリスの5つのフリースクールの誕生日を祝うパーティーを開きました。サマーヒルスクール、サンズスクール、パークスクール、ファミリースクール、ダーティントンホールスクールの5つです。サンズスクールは今回のIDECの主催フリースクールです。パークスクールはサンズの姉妹校のような縁の深いフリースクールです。ファミリースクールはできて3年目の新しいところです。ダーティントンは85年前に設立されもう閉じたものですが、サンズとパークの源流のフリースクールです。パーティーには大きな5つのバースデイケーキが飾られ、深夜まで音楽と踊りで誕生を祝いました。

2011年7月9日土曜日

IDEC2011イギリス大会③

 今年のIDECは朝のミーティングから始まります。その日の活動でお知らせしたいことを紹介するようなことが多いです。話をしているのはサンズスクールのOGです。今年の大会はサンズスクールの子どもたちとOBOGが準備の殆どをしているそうです。サンズスクールの代表のショーンさんは、スタッフはちょっと相談に乗ったりしているくらいだと言っていました。
 話している人の後ろにEUDECとあるのは、サンズスクールが中心となって開いているIDECですが、EUDECというヨーロッパデモクラティック教育大会も共催団体になっているからです。ここ数年、EUDECはとても活発になっていて、今年のIDECにはEUDECのメンバーがたくさん参加しています。一番参加が多いのは地元イギリスを除くとドイツです。ドイツだけで100人以上の参加があります。EUDECが始まってから今までIDECにあまり参加の無かったイタリアやデンマークなどからも参加があるようになりました。

2011年7月7日木曜日

IDEC2011イギリス大会②

 今年のIDECの会場はダートムーア国立公園の中にある、ダート川公園キャンプ場です。その中に巨大な四角いテントを設営してメインの会場にしています。建物の部屋も2、3使うのですが、この他にいくつかの大きなテントが置かれ、そこでもワークショップを行ないます。3食を会場で取りますが、その会場もテントです。初日は午後から結構雨が降り、テントとテントの間から、テントの幕に溜まった水が滝のように落ちて喚声があがりました。なだらかに広がる緑の丘陵地帯の中で、世界各地から集まった400人の参加者で今年のIDECは始まりました。この写真は今日のタイムテーブルの一部です。

IDEC2011イギリス大会①

 今年のIDEC国際デモクラティック教育大会はイギリスの南西にあるデボンで行なわれます。サンズスクールというフリースクールの主催です。7月6日の午前から大会が始まるため、5日の夜の便でイギリス入りをした私達は夜行列車で移動しました。乗換えが3回あり、この写真は1回目に載った空港のターミナル間をつなぐ列車のものです。夜行列車には空港から約1時間行ったレディングから乗りました。会場近くの駅のニュートンアボットまで約4時間の旅でした。予算節約もあり寝台車でなく座席のリクライニングなどのない一般車に乗りました。相席の青年はネパールから家族で移民して来た人で、IDEC会場の近くで働く18歳の人でした。ロンドンに住む家族から、ネパールの節句のような機会の度に呼ばれて帰るのだけれど、お金も時間も無いから夜行の一般車に乗るけれどあまり眠れない状態で朝から働くのは辛いと言っていました。イギリスは緩やかに人口が増えているといいますが、そのような人口増には、比較的寛容といわれている移民受入が大きな役割を果たしていると聞きます。そして私達は、この青年から若く見える、ちょっと年上くらいに思っていたと言われちょっといい気分?になっていたのですが、実年齢を言うと僕の父やおじの歳と言われてしまいました。彼と握手をしていい出会いに感謝して別れて、ニュートンアボット駅に降りました。

2011年4月8日金曜日

韓国オルタナティブ教育訪問2011⑤

 ハジャセンターは韓国のオルタナティブ教育をリードしてきた旗振り役の一つです。1999年12月に始まり、10年以上活動を続けています。学校に合わず、学校を飛び出し、行き場が無いように感じている若者たちが活動の中心となり、映像やデザイン、など様々な表現活動、社会への自分たちの声を発信する活動をしてきました。ハジャは学校に行っている若者たちにも広く門を開いていて、映像、デザイン、ファッション、ウェッブなどのワークショップを受けることができるティーンエイジャーたちの表現などの一大発信基地でした。ハジャスクールがその中心的な役割を担ってきました。
 現在は、社会的企業が育っていく基盤として12の社会的企業が活動を展開しています。ハジャスクールは社会的企業ではなく、オルタナティブスクールですが、今もハジャセンターの中にあり、活動しています。ハジャスクールのOBOGでこれらの社会的企業を始めたり、参加したりしているメンバーも少なくありません。

 この写真は、ハジャセンターの建物に入ってすぐの壁画です。壁画の前に立っている3人が中心になって制作しています。

2011年4月6日水曜日

韓国オルタナティブ教育訪問2011④

 AHAセンターは性のあり方について主にティーンエイジャーに、情報を提供し、ディスカッションをする展示館を運営している団体です。展示館の入口は狭く靴を脱いで入ります。このトンネルのような入口は産道を模したもので、子宮に当たることろが小さなホールとなっています。手をつないでいる男女、同性同士のカップルが微笑んでいる写真など様々な二人の写真がピアソラの音楽に載せてスクリーンに投影されます。この映像を見た後で感想を交換し、展示物の部屋に移動します。展示の部屋は展示の部屋としては決して大きな部屋ではありません。しかし、いくつかのコーナーがあり、趣向を凝らしてあります。時代ごとに人気のあるタレントの写真などがあって人気のる容姿の変化が見て取れるコーナーは、展示を見て意見交換をするコーナーです。「手を握る」「キスをする」「性交をする」など性的接触について、自分は「今、望んでいてしたい」のか、「望んでいるが今はいや」なのかなど、個々に自分の感覚を確認するコーナーがあったり、性的暴力を受けた人へメッセージを書くコーナーがあったり、説明を読んだり聞いたりするだけではない趣向になっています。

2011年4月4日月曜日

韓国オルタナティブ教育訪問2011③

 お昼をムージゲでご馳走になり、その足でミンドゥルレに向かいました。デモクラティックな教育をリードする雑誌『ミンドゥルレ』を発行するミンドゥルレに自然に集まってきた子どもたちから生まれたオルタナティブスクールです。子どもたちが歓迎のためにつくってくれた看板に迎えられました。
 オルタナティブスクールは、4年前に「空間・ミンドゥルレ」となっており、より計画的な学びに力を入れるようになってきています。「世界を読む」「他者の人生の中に入る」「私の心の映画をつくる」などの講座があります。
 夕食をはさんで、韓国のオルタナティブスクールのネットワークに参加しているスタッフとの意見交換会を持ちました。日本からの参加者を入れないで30人近い参加がありました。
ディスカッションには2つのテーマが用意されていました。一つは、子ども中心の学びや活動をどのようにつくるのか、で、もう一つは、どのようにオルタナティブ教育への理解を広げ、制度を変えていくのかというものでした。
 写真はミンドゥルレの看板です。

韓国オルタナティブ教育訪問2011②

 2日目は盛りだくさんな一日でした。まず、朝はソウルを少し南に行った郊外にあるムージゲオルタナティブスクールに行きました。ムージゲは「虹」という意味で、キャンパスの建物の壁に虹をイメージした色彩が施されていました。
 8年前に設立されたこのオルタナティブスクールは、4年前に自前の建物を建て現在は小学校6年間だけでなく中学校1年生年齢までで約80人が地域から通ってきています。徒歩で歩いてきたり、バスを使ったり、ほとんどの子どもが地域の子どもだそうです。
日本では徒歩やバスで通ってくる子どもで80人もフリースクールに子どもが集まるということは、非常に考えにくいです。
 ここでは3年生から6年生年齢の子どもたちが衣服、住居、料理・食の三つのプロジェクトに分かれて、総合的な学びをしています。きのくに子どもの村に一人のスタッフが半年学びに行って、そのやり方を参考に実践しています。調べるだけでなく、いろんなものを造ったり、実践したりしています。住居のプロジェクトで自然の資源をつかった発電を学んだ時は、太陽発電を敷設するだけでなく、仕組みを調べて自分たちで自転車による発電マシンを手作りして自分たちで発電できるようになっていました。この写真は、子どもたちが作った発電自転車です。

韓国オルタナティブ教育訪問2011①

 この写真はソンミサンスクールという韓国のオルタナティブスクールで撮ったものです。震災の前から日韓のフリースクールのスタッフで訪問しあうだけでなく、テーマを設けお互いの日常を豊かに変えていけるような突っ込んだ議論をできるような交流をしようと計画していた企画です。地震もあり今回どうするかという議論もしましたが、できる限り可能なことはしていくことと考えて、韓国の方たちも準備をして下さっているので実施しました。
 朝や早い便でソウルに入り、午後にはソンミサンスクールに行きました。ここは、市の中心に近い地区で環境運動でつながりあった人たちが作り出したオルタナティブスクールです。建物もオリジナルのものを建設し、施設もとても充実していますが、なんと言っても大きな特徴は、地域との結びつきです。今は、ここの子どもたちのほとんどは、この地域にある4つの共同保育園からきています。そして、地域の様々な草の根の活動と有機的につながっています。今回は、代表のパクさんと2時間以上お話をしていただきましたが、、それに加え、キャンパスを案内していただき、またさらに地域の劇場、カフェ、などのいくつか見せて頂きました。4年前にもうかがったのですが、さらに地域とのつながりが厚くなり活動も充実していました。
 この写真は地域にも開かれているカフェです。子ども・若者が得意なクッキーなどのお菓子を焼き、社会的企業として行政の支援を受けつつ営業しているものです。とてもおいしかったです。

東北・北関東の太平洋岸の大地震

 3月11日も忘れることのできない日の一日に加わりました。東京はそこに住む者としては大きな揺れではあったのですが、東北・北関東の太平洋岸の地域の方々のことを思うと、被害も非常に限定的ですみました。しかし、この日は交通がなかなか動かず、シューレ大学に帰れない学生が泊まりました。そして、余震に慣れ、、原発の放射能漏れの心配をする日々になりました。
この震災が起きて、海外の友人たちからは多くの連絡があり、多くの人につながってもらっており、支えられているのだということを、改めて確認するようなことになりました。
 アメリカのクロンララスクール、テュートリアルスクール、IDEAというネットワーク、ロシアのモスクワ国際フィルムスクール、イギリスのサンズスクール、フェニックス研究所、イスラエルのデモクラティック研究所、フリースクール、韓国のミンドゥルレ、オルタナティブ教育ネットワーク、オーストラリアのフリースクールのネットワーク、1月に被災したニュージーランドのタマリキスクール、ブラジル、インドネシアなどあちこちの個人の友人たち、こういった人たちから暖かいメールをもらいました。この中には、放射線の危険もあるのでシューレ大学のメンバーを全員受けいれると言って下さったところもありました。本当に勇気付けられました。
 東京では地震の日からしばらく食品をはじめ様々なものが店頭から消えました。不安からの買占めも多く、深刻な被災地の人々に申し訳ない気持ちになる光景でした。(写真提供:440Hz石本恵美さん)

2011年1月10日月曜日

DCTV

 今回の投稿はベアテさんの話から離れます。ニューヨークのマンハッタンのダウンタウンにDCTV(ダウンタウンコミュニティTV )という独立映像プロダクションがあります。脚光を浴びないけれど世の多くの人が汁に値する事柄を骨太なドキュメンタリー作品にしているところです。
 シューレ大学では2003年にアメリカで開かれたIDEC(国際デモクラティック教育大会)に参加するために渡米した折、一度訪問しています。それ以来の訪問ですが、実は、去年、第3回シューレ大学国際映画祭でDCTVの映像を上映しています。DCTVには若者がビデオで自画像を撮るという2年間のプログラムがあり、すばらしい作品がたくさん生まれています。その中の一つを上映し、来場者からもずいぶんと評判になりました。
 DCTVは30年以上前にジョン・アルパートさんと津野敬子さんのご夫妻が設立しました。津野さんは数日前までせきがひどかったそうなのですが、お会いした時はお元気になられたようでした。ジョンさんにお茶を入れていただいて、津野さんと今回は去年の映画祭の報告をしたり、今年の映画祭で上映する作品の相談をしたり、いろんな話をしました。

GHQ草案を起草した部屋を訪れて

 憲法案を起草した件は、家族も含め他言無用という厳命だったため、戦後ずっとその件についてベアテさんが話すことは無かったそうです。しかし、何らかの経緯で憲法草案のことは知られるようになり、90年代になって当時存命だったベアテさんとケーディス元大佐が日本に呼ばれ、当時の執務室を訪れました。その時の写真です。
 各国の憲法を集めてその時点で最善の人権条項を書こうと努力したのだそうです。実現には至りませんでしたが、最初の原稿には学齢の子どもたちの歯医者を含む医療費の無償なども盛り込まれていました。相続で非嫡子の差別を無くすことなども書かれていましたが、「民法に書くべき」ということではずされます。ベアテさんは、「しかし、今の改革の時期を逃すと実現に相当な時間がかかる」と抗議したのだそうですが、通りませんでした。今も、この件はまだ解決していません。それでも人権については日本の憲法はアメリカの憲法より充実しているのだそうです。

アジアソサエティ

 この陶器は野々村仁清の作のものです。日本でもなかなか目にする機会の無いものです。アジアソサエティのロビーの奥の展示コーナーにありました。
 ベアテさんはアジアソサエティーでも文化理解、人物交流に尽力しました。日本を中心に交流されてきた方ですが、アジア各地に出かけていっていろんな人を招聘しています。インド、アラビア半島をはじめ、チベットにもブータンにも出かけたそうです。アジアで行っていない国はほとんど無いほどだそうです。
 それぞれの違いをよく知るだけでなく、人が以下に同じかということが実感されていくことが深いつながり合いをつくっていくのだと感じたそうです。

アメリカに戻ってからのベアテさん

 GHQで憲法草案を起草し、日本政府との折衝に参加した後、ベアテさんは調査専門家と言う仕事を翌年の半ばまで続け、アメリカに戻りました。そして、滞日中に知り合ったゴードンさんと結婚します。
 結婚後いくつかの職をへて、ジャパンソサエティとアジアソサエティという団体で国際交流の仕事を始めます。いくつかの理由が重なってのことです。めぐり合わせもあれば、人との交流が好きだと言うこともあれば、また、平和を実現するためには違う社会に生きる人たちが出会い、お互いを知り合うことこそが大切なのだという思いもあったそうです。
 ベアテさんがアメリカに留学した当時、アメリカの人たちから「日本の人は洞穴にすんでいるの?木の上に住んでいるの?」とか、聞かれて憤慨したり、悲しくなったりしたそうです。わからない相手には疑心暗鬼になりやすいものです。
 ベアテさんは有名無名を問わず紹介したいすばらしいものや表現を夢中になって紹介したそうです。この写真は版画家の棟方志功との写真です。棟方志功はベアテさんをずいぶんと気に入ったそうで、ベアテさんの家にはたくさん棟方志功の作品が飾られています。

2011年1月8日土曜日

終戦後の日本でGHQ憲法草案を執筆する

 この写真はベアテさんの新婚当時のものです。なんだか、ハリウッドで美人女優を売りにした映画が全盛の頃の映画の写真みたいですね。その時代のことなのでした。ベアテさんは自分が育った東京が焼け野原になっているのを見てともかく悲しかったとのことです。欧州にいた親戚も殺されたり、戦争をともかくなくさなければいけない、そのためにも、弱い立場に置かれている女性や子どもの権利が保障されなければいけないと考えたのだそうです。
 差別されたり、得られるべき権利が得られないような人々がいる限り平和も実現しないという考えもあったようです。

2011年1月7日金曜日

ビデオ映像・戦争と平和シリーズ取材

シューレ大学では「戦争と平和シリーズ」というビデオ作品を作っています。戦争と平和について考えていきたいけれど、自分に引き伝感じたり考えたりすることが難しいということをどうにかするための企画です。また、自分たちと同じようなことを感じている人たちと共有できればということから始まっています。
 今回はその3作目にあたります。ベアテ・シロタ・ゴードンさんというGHQ憲法草案を作ったメンバーで唯一今、ご存命の方です。1923年にオーストリアでユダヤ人の両親の元に生まれ、戦前の日本で育ち、アメリカに留学中に戦争が始まり、日本にいる両親と離れ離れになったり、欧州の多くの親戚がナチスの絶滅収容所で亡くなるなど多くの悲しみ苦しみを経験されました。
 終戦直後、どのように暮らしているのかわからない両親に何とか合いたい一心で、GHQの文民メンバー初の女性として来日し、数奇な運命から憲法草案を書くメンバーになりました。ベアテさんのインタビューのために今、ニューヨークに来ています。今回は、いつものオルタナティブ教育の訪問と少し違った報告になります。
 この写真はベアテさんが日本にいた時に踊っていたものです。ベアテさんは高名なピアニストの娘として生まれ、小さい頃から芸術に触れて育ち、ご自身は踊りが大好きだったそうです。