大会参加者たちはハグをし合いながら、来年のIDECでの再会を祈ってそれぞれの国に帰っていきました。空港への車で隣り合わせたのはペルーのシュタイナースクールのスタッフです。首都リマの郊外にある120人のシュタイナースクールで美術を教えているのだそうです。他のシュタイナースクールを含め、多くの学校では貧富の差がある家庭の子どもが一緒に学ぶことが殆ど無いそうですが、このシュタイナースクールでは、所得の少ない家庭の場合は減額をかなりして、参加可能にしているのだそうです。このスタッフとも再会を祈って別れを惜しみました。
2012年4月1日日曜日
IDEC2012プエルトリコ⑮
大会参加者たちはハグをし合いながら、来年のIDECでの再会を祈ってそれぞれの国に帰っていきました。空港への車で隣り合わせたのはペルーのシュタイナースクールのスタッフです。首都リマの郊外にある120人のシュタイナースクールで美術を教えているのだそうです。他のシュタイナースクールを含め、多くの学校では貧富の差がある家庭の子どもが一緒に学ぶことが殆ど無いそうですが、このシュタイナースクールでは、所得の少ない家庭の場合は減額をかなりして、参加可能にしているのだそうです。このスタッフとも再会を祈って別れを惜しみました。
2012年3月31日土曜日
IDEC2012プエルトリコ⑭
IDEC2012プエルトリコ⑬
IDEC2012プエルトリコ⑫
町中の複合ビルの2階を借りています。小さい扉を開け、狭い階段を上がって入りますが、中は結構広くて、日本の20人規模のフリースクールよりは広いです。瞑想の部屋、授業の部屋が3つ、スポーツの部屋、キッチン、ダイニング、ロッカールーム、ラウンジ、アートの部屋、、PCコーナー、ベランダ菜園、などがあります。5人のお子さんを持つ代表が、始めはホームエデュケーションをしていたけれど、情報を集めていく中で、デモクラティックスクールを始めたいと思うようになり、5年前に7人の子どもから始めたのだそうです。
2012年3月30日金曜日
IDEC2012プエルトリコ⑪
IDEC2012プエルトリコ⑩
この「IDECミーティング」の進行は今回の主催団体のノイエストラ・エスキュエラの子どもたちが務めてくれました。なかなか難しい進行でしたが、どうどうと進めてくれました。
次々回、2014年の立候補はニュージーランドと韓国です。韓国は2009年に韓国のオルタナティブスクールのネットワークが主催することになっていましたが、新型インフルエンザのために中止になっています。今回はピョプシスクールというオルタナティブスクールが開催の立候補をしました。写真は、ピョプシスクールのOGが発言しているところです。そして、最終日を待たずに表決しました。ニュージーランドの立候補団体が今回の大会に来ていないこともあり、2014年は韓国に決まりました。
2012年3月29日木曜日
IDEC2012プエルトリコ⑨
IDEC2012プエルトリコ⑧
IDEC2012プエルトリコ⑦
殆どの子が学校が合わなくて何らかの形でノイストラ・エスキュエラにたどり着いています。ただ、日本の不登校とはイメージが違っていて、成績の悪いとか、授業に付いていけないとかいうイメージを持たれている子どもたちです。
無料で子どもたちを受け入れています。その大きな理由は、家族の理解が得られない子どもが少なくないことです。親が養育を放棄していたり、性的虐待を受けていたり、中には親を知らない子どももいるそうです。一人一人の子どもを受け止めるということをとても大切にしているのだそうです。
2012年3月28日水曜日
IDEC2012プエルトリコ⑥
IDEC2012プエルトリコ⑤
2012年3月27日火曜日
IDEC2012プエルトリコ④
IDEC2012プエルトリコ③
そこで、カグアスのトーレス市長に知り合いのメリアさんと二人でインタビューをしました。カグアスでは貧困や治安の悪さなどの問題がありますが、エデュケーショナル・シティになることで、一人一人が幸せになる、あるいは幸せになることに意識的になれることで問題を解決していけるのではないか、と考えています。物静かな方のようですが、情熱を感じました。
2012年3月26日月曜日
IDEC2012プエルトリコ②
IDEC2012プエルトリコ大会①
2011年1月10日月曜日
GHQ草案を起草した部屋を訪れて
各国の憲法を集めてその時点で最善の人権条項を書こうと努力したのだそうです。実現には至りませんでしたが、最初の原稿には学齢の子どもたちの歯医者を含む医療費の無償なども盛り込まれていました。相続で非嫡子の差別を無くすことなども書かれていましたが、「民法に書くべき」ということではずされます。ベアテさんは、「しかし、今の改革の時期を逃すと実現に相当な時間がかかる」と抗議したのだそうですが、通りませんでした。今も、この件はまだ解決していません。それでも人権については日本の憲法はアメリカの憲法より充実しているのだそうです。
アジアソサエティ
アメリカに戻ってからのベアテさん
結婚後いくつかの職をへて、ジャパンソサエティとアジアソサエティという団体で国際交流の仕事を始めます。いくつかの理由が重なってのことです。めぐり合わせもあれば、人との交流が好きだと言うこともあれば、また、平和を実現するためには違う社会に生きる人たちが出会い、お互いを知り合うことこそが大切なのだという思いもあったそうです。
ベアテさんがアメリカに留学した当時、アメリカの人たちから「日本の人は洞穴にすんでいるの?木の上に住んでいるの?」とか、聞かれて憤慨したり、悲しくなったりしたそうです。わからない相手には疑心暗鬼になりやすいものです。
ベアテさんは有名無名を問わず紹介したいすばらしいものや表現を夢中になって紹介したそうです。この写真は版画家の棟方志功との写真です。棟方志功はベアテさんをずいぶんと気に入ったそうで、ベアテさんの家にはたくさん棟方志功の作品が飾られています。
2011年1月8日土曜日
終戦後の日本でGHQ憲法草案を執筆する
2011年1月7日金曜日
ビデオ映像・戦争と平和シリーズ取材
今回はその3作目にあたります。ベアテ・シロタ・ゴードンさんというGHQ憲法草案を作ったメンバーで唯一今、ご存命の方です。1923年にオーストリアでユダヤ人の両親の元に生まれ、戦前の日本で育ち、アメリカに留学中に戦争が始まり、日本にいる両親と離れ離れになったり、欧州の多くの親戚がナチスの絶滅収容所で亡くなるなど多くの悲しみ苦しみを経験されました。
終戦直後、どのように暮らしているのかわからない両親に何とか合いたい一心で、GHQの文民メンバー初の女性として来日し、数奇な運命から憲法草案を書くメンバーになりました。ベアテさんのインタビューのために今、ニューヨークに来ています。今回は、いつものオルタナティブ教育の訪問と少し違った報告になります。
この写真はベアテさんが日本にいた時に踊っていたものです。ベアテさんは高名なピアニストの娘として生まれ、小さい頃から芸術に触れて育ち、ご自身は踊りが大好きだったそうです。
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