数人いる役者が一斉に同じせりふを言う場面が何度も出てきます。タイミングがそろわないと、客はせりふが聞き取れません。役者たちはちゃんとタイミングをそろえ、きちんとせりふは聞こえました。また、この演劇では一人の役者が2役以上演じることが多く、複雑ですが、よく稽古をしていたようで、スムーズに流れができていました。11歳・12歳の子どもたちがホメロスのオデッセイを演じていました。こちらは、演じるのがいかにも楽しそうでした。大きい年齢の子どもたちがもう1種類演劇を公演していましたが、それは見ることができませんでしたが、とても充実していたようです。
2011年7月25日月曜日
IDEC2011イギリス大会⑦サンズスクールの演劇
数人いる役者が一斉に同じせりふを言う場面が何度も出てきます。タイミングがそろわないと、客はせりふが聞き取れません。役者たちはちゃんとタイミングをそろえ、きちんとせりふは聞こえました。また、この演劇では一人の役者が2役以上演じることが多く、複雑ですが、よく稽古をしていたようで、スムーズに流れができていました。11歳・12歳の子どもたちがホメロスのオデッセイを演じていました。こちらは、演じるのがいかにも楽しそうでした。大きい年齢の子どもたちがもう1種類演劇を公演していましたが、それは見ることができませんでしたが、とても充実していたようです。
2011年7月24日日曜日
IDEC2011イギリス大会⑥サンズスクール
母屋に続く芝生の庭には何本かの大きい木がありますが、その脇にはクライミングのための壁、スケートボード用のコーナーもあります。樹の内の1本には樹上ハウスのようなものもあります。芝生を進むとバスケットコートにもテニスコートにもなるスポーツコートがあります。その他にも花壇や野菜や果樹が植わっているところもあり、とても豊かな環境です。
2011年7月16日土曜日
IDEC2011イギリス大会⑤IDEC会場
会場ではサンズスクールの子どもたちが所狭しと走り回っていて、大人も巻き込んで旗を使った陣取りで盛り上っていました。子どもたちはそれだけでなく、受付や食事当番(盛り付け・食器洗い)などもしっかり担ってくれていました。
サンズスクールへは会場から歩いて3分ほどの所にあり、のどかな牧草地帯を辿っていくのがなかなか心地よいところです。会場は、ダートムーア国立公園の中に位置する自然体験施設で、キャンプもできればアスレチックもでき、講演などに使える部屋もいくつかあります。しかし、IDECではそれだけではワークショップをする場所が足りないので大きなテントをいくつか設営していました。実は、象やサイはそのテントの看板代わりにもなっていました。「○○のワークショップは象のテントで」というように使われていました。
2011年7月10日日曜日
IDEC2011イギリス大会④パークスクール
IDEC2011イギリス大会④イギリスのフリースクールの誕生日
2011年7月9日土曜日
IDEC2011イギリス大会③
話している人の後ろにEUDECとあるのは、サンズスクールが中心となって開いているIDECですが、EUDECというヨーロッパデモクラティック教育大会も共催団体になっているからです。ここ数年、EUDECはとても活発になっていて、今年のIDECにはEUDECのメンバーがたくさん参加しています。一番参加が多いのは地元イギリスを除くとドイツです。ドイツだけで100人以上の参加があります。EUDECが始まってから今までIDECにあまり参加の無かったイタリアやデンマークなどからも参加があるようになりました。
2011年7月7日木曜日
IDEC2011イギリス大会②
IDEC2011イギリス大会①
2011年4月8日金曜日
韓国オルタナティブ教育訪問2011⑤

現在は、社会的企業が育っていく基盤として12の社会的企業が活動を展開しています。ハジャスクールは社会的企業ではなく、オルタナティブスクールですが、今もハジャセンターの中にあり、活動しています。ハジャスクールのOBOGでこれらの社会的企業を始めたり、参加したりしているメンバーも少なくありません。
この写真は、ハジャセンターの建物に入ってすぐの壁画です。壁画の前に立っている3人が中心になって制作しています。
2011年4月6日水曜日
韓国オルタナティブ教育訪問2011④

2011年4月4日月曜日
韓国オルタナティブ教育訪問2011③

オルタナティブスクールは、4年前に「空間・ミンドゥルレ」となっており、より計画的な学びに力を入れるようになってきています。「世界を読む」「他者の人生の中に入る」「私の心の映画をつくる」などの講座があります。
夕食をはさんで、韓国のオルタナティブスクールのネットワークに参加しているスタッフとの意見交換会を持ちました。日本からの参加者を入れないで30人近い参加がありました。
ディスカッションには2つのテーマが用意されていました。一つは、子ども中心の学びや活動をどのようにつくるのか、で、もう一つは、どのようにオルタナティブ教育への理解を広げ、制度を変えていくのかというものでした。
写真はミンドゥルレの看板です。
韓国オルタナティブ教育訪問2011②

8年前に設立されたこのオルタナティブスクールは、4年前に自前の建物を建て現在は小学校6年間だけでなく中学校1年生年齢までで約80人が地域から通ってきています。徒歩で歩いてきたり、バスを使ったり、ほとんどの子どもが地域の子どもだそうです。
日本では徒歩やバスで通ってくる子どもで80人もフリースクールに子どもが集まるということは、非常に考えにくいです。
ここでは3年生から6年生年齢の子どもたちが衣服、住居、料理・食の三つのプロジェクトに分かれて、総合的な学びをしています。きのくに子どもの村に一人のスタッフが半年学びに行って、そのやり方を参考に実践しています。調べるだけでなく、いろんなものを造ったり、実践したりしています。住居のプロジェクトで自然の資源をつかった発電を学んだ時は、太陽発電を敷設するだけでなく、仕組みを調べて自分たちで自転車による発電マシンを手作りして自分たちで発電できるようになっていました。この写真は、子どもたちが作った発電自転車です。
韓国オルタナティブ教育訪問2011①

朝や早い便でソウルに入り、午後にはソンミサンスクールに行きました。ここは、市の中心に近い地区で環境運動でつながりあった人たちが作り出したオルタナティブスクールです。建物もオリジナルのものを建設し、施設もとても充実していますが、なんと言っても大きな特徴は、地域との結びつきです。今は、ここの子どもたちのほとんどは、この地域にある4つの共同保育園からきています。そして、地域の様々な草の根の活動と有機的につながっています。今回は、代表のパクさんと2時間以上お話をしていただきましたが、、それに加え、キャンパスを案内していただき、またさらに地域の劇場、カフェ、などのいくつか見せて頂きました。4年前にもうかがったのですが、さらに地域とのつながりが厚くなり活動も充実していました。
この写真は地域にも開かれているカフェです。子ども・若者が得意なクッキーなどのお菓子を焼き、社会的企業として行政の支援を受けつつ営業しているものです。とてもおいしかったです。
東北・北関東の太平洋岸の大地震
この震災が起きて、海外の友人たちからは多くの連絡があり、多くの人につながってもらっており、支えられているのだということを、改めて確認するようなことになりました。
アメリカのクロンララスクール、テュートリアルスクール、IDEAというネットワーク、ロシアのモスクワ国際フィルムスクール、イギリスのサンズスクール、フェニックス研究所、イスラエルのデモクラティック研究所、フリースクール、韓国のミンドゥルレ、オルタナティブ教育ネットワーク、オーストラリアのフリースクールのネットワーク、1月に被災したニュージーランドのタマリキスクール、ブラジル、インドネシアなどあちこちの個人の友人たち、こういった人たちから暖かいメールをもらいました。この中には、放射線の危険もあるのでシューレ大学のメンバーを全員受けいれると言って下さったところもありました。本当に勇気付けられました。
東京では地震の日からしばらく食品をはじめ様々なものが店頭から消えました。不安からの買占めも多く、深刻な被災地の人々に申し訳ない気持ちになる光景でした。(写真提供:440Hz石本恵美さん)
2011年1月10日月曜日
DCTV
シューレ大学では2003年にアメリカで開かれたIDEC(国際デモクラティック教育大会)に参加するために渡米した折、一度訪問しています。それ以来の訪問ですが、実は、去年、第3回シューレ大学国際映画祭でDCTVの映像を上映しています。DCTVには若者がビデオで自画像を撮るという2年間のプログラムがあり、すばらしい作品がたくさん生まれています。その中の一つを上映し、来場者からもずいぶんと評判になりました。
DCTVは30年以上前にジョン・アルパートさんと津野敬子さんのご夫妻が設立しました。津野さんは数日前までせきがひどかったそうなのですが、お会いした時はお元気になられたようでした。ジョンさんにお茶を入れていただいて、津野さんと今回は去年の映画祭の報告をしたり、今年の映画祭で上映する作品の相談をしたり、いろんな話をしました。
GHQ草案を起草した部屋を訪れて
各国の憲法を集めてその時点で最善の人権条項を書こうと努力したのだそうです。実現には至りませんでしたが、最初の原稿には学齢の子どもたちの歯医者を含む医療費の無償なども盛り込まれていました。相続で非嫡子の差別を無くすことなども書かれていましたが、「民法に書くべき」ということではずされます。ベアテさんは、「しかし、今の改革の時期を逃すと実現に相当な時間がかかる」と抗議したのだそうですが、通りませんでした。今も、この件はまだ解決していません。それでも人権については日本の憲法はアメリカの憲法より充実しているのだそうです。
アジアソサエティ
アメリカに戻ってからのベアテさん
結婚後いくつかの職をへて、ジャパンソサエティとアジアソサエティという団体で国際交流の仕事を始めます。いくつかの理由が重なってのことです。めぐり合わせもあれば、人との交流が好きだと言うこともあれば、また、平和を実現するためには違う社会に生きる人たちが出会い、お互いを知り合うことこそが大切なのだという思いもあったそうです。
ベアテさんがアメリカに留学した当時、アメリカの人たちから「日本の人は洞穴にすんでいるの?木の上に住んでいるの?」とか、聞かれて憤慨したり、悲しくなったりしたそうです。わからない相手には疑心暗鬼になりやすいものです。
ベアテさんは有名無名を問わず紹介したいすばらしいものや表現を夢中になって紹介したそうです。この写真は版画家の棟方志功との写真です。棟方志功はベアテさんをずいぶんと気に入ったそうで、ベアテさんの家にはたくさん棟方志功の作品が飾られています。
2011年1月8日土曜日
終戦後の日本でGHQ憲法草案を執筆する
2011年1月7日金曜日
ビデオ映像・戦争と平和シリーズ取材
今回はその3作目にあたります。ベアテ・シロタ・ゴードンさんというGHQ憲法草案を作ったメンバーで唯一今、ご存命の方です。1923年にオーストリアでユダヤ人の両親の元に生まれ、戦前の日本で育ち、アメリカに留学中に戦争が始まり、日本にいる両親と離れ離れになったり、欧州の多くの親戚がナチスの絶滅収容所で亡くなるなど多くの悲しみ苦しみを経験されました。
終戦直後、どのように暮らしているのかわからない両親に何とか合いたい一心で、GHQの文民メンバー初の女性として来日し、数奇な運命から憲法草案を書くメンバーになりました。ベアテさんのインタビューのために今、ニューヨークに来ています。今回は、いつものオルタナティブ教育の訪問と少し違った報告になります。
この写真はベアテさんが日本にいた時に踊っていたものです。ベアテさんは高名なピアニストの娘として生まれ、小さい頃から芸術に触れて育ち、ご自身は踊りが大好きだったそうです。
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